源氏と平氏の違いを系図1枚で整理した|どちらも天皇家から分かれた、同じ家の兄弟げんか
鬼武者の新作をきっかけに源義経を調べたとき、いちばん時間を使ったのが「そもそも源氏と平氏って何が違うのか」でした。学校で習ったはずなのに、説明しろと言われると口ごもる。調べながらノートに系図を描いて、ようやく腹に落ちたので、その図を清書してここに置いておきます。
結論から言うと、源氏も平氏も天皇家の分家です。源平合戦は他人同士の戦いではなく、同じ家から分かれた二つの系統の兄弟げんかでした。
系図:天皇家から源氏と平氏が分かれるまで
まず「姓」は天皇が与えるものだった
平安時代、皇族は増え続けました。全員を皇族として養うと財政がもたないので、ある世代から下は皇籍を離れて臣下になる仕組みがありました。これを臣籍降下といい、そのときに天皇から与えられる姓が賜姓です。
ここで押さえておきたいのは、天皇家そのものには姓がないということです。姓は天皇が臣下に「与える」ものなので、与える側は持たない。源も平も、「天皇家から分かれました」という印であって、それより先にさかのぼれる氏は存在しません。
源氏:「源を同じくする」から源
最初の源氏は814年、嵯峨天皇が皇子女に源姓を与えたのが始まりです。「源」の字は、天皇と源(みなもと)を同じくするという意味だと言われます。中国の『魏書』に、北魏の皇帝が降ってきた王族に「卿は朕と源を同じくする」と言って源姓を与えた故事があり、漢籍に通じた嵯峨天皇がこれに倣ったとされます。
源姓はその後も、仁明、清和、宇多、村上など多くの天皇が与えました。二十以上の流れがあり、天皇の名を冠して嵯峨源氏、清和源氏のように呼び分けます。
武士として最大の勢力になったのが清和源氏です。清和天皇の孫の経基王が臣籍に下って源経基となり、その孫の満仲の代で大きく枝分かれします。系図の左側がそれで、覚え方はこうです。
- 頼光の系統が摂津源氏。酒呑童子を退治した頼光、鵺を射た頼政。妖怪退治の家系
- 頼信の系統が河内源氏。義家、義朝を経て頼朝と義経。武家政権を作った家系
鬼武者に出てくる鵺も酒呑童子も、源氏の中でも摂津源氏が倒した化け物でした。頼朝・義経の河内源氏とは、満仲のところで分かれた別の枝です。
平氏:賜姓が二度あり、性格の違う二つの流れに
平氏も仕組みは同じですが、賜姓が二度あって、まったく性格の違う二つの系統になりました。系図の右側です。
一度目は825年、桓武天皇の孫の高棟王(たかむねおう)。この系統は京都に残って公家として続きました。堂上平氏と呼ばれ、武士にはなっていません。
二度目は889年、桓武天皇の曾孫にあたる高望王(たかもちおう)。こちらが武家平氏の祖です。決定的だったのは、高望王が上総介として関東に赴任したあと、任期が終わっても京へ戻らなかったこと。現地に根を下ろし、その子の代で関東の在地武士団ができあがります。
- 良将の子が平将門。935年に一族との私闘が始まり、939年には新皇を称して朝廷に反旗を翻します
- 将門を討った国香の子が貞盛。この系統が伸びて、子孫が伊勢に移って伊勢平氏となり、正盛、忠盛と続いて清盛へ
清盛は高望王から数えて九代目です。
「平」の字の由来は確定していません。平安京にちなむという説がよく挙げられますが、諸説あります。
違いを3行で
ここまでを3行にまとめると、こうなります。
- どちらも天皇家の分家。源氏は嵯峨天皇以降の多数の天皇から、平氏は桓武天皇から
- 源氏は武士の家が主流で、摂津源氏(妖怪退治)と河内源氏(武家政権)に分かれる
- 平氏は公家の堂上平氏と武家の伊勢平氏に分かれ、源平合戦で戦ったのは伊勢平氏=平家
源平合戦は、同じ天皇家から分かれた河内源氏と伊勢平氏の戦いでした。遠い親戚どうしの、国を二分する兄弟げんかです。
系図を描いてみてわかったこと
文字で読んでいるときは、頼光と頼朝の関係も、将門と清盛の関係も、ぼんやりしていました。描いてみると、満仲と高望王という分岐点の人物が見えてきて、そこから先は枝をたどるだけになります。
歴史は人名の暗記ではなく、分岐点の把握だと思います。この系図が、同じところで止まっていた誰かの役に立てば嬉しいです。
鬼武者の新作から義経を調べた経緯は鬼武者新作にみる源義経の人生に書いています。ラスボスがなぜ義経なのかという話で、この系図の続きにあたります。